旅人のうた

Chrome拡張機能のエディタを使う- CARET

ふだんブラウザはChrome、エディタはAtomやらVisualStudioCodeやらその時々でテキトーに使っています。

がしか~し、ブラウザ上で編集してしまいたい時もあります。

メモだったらGoogle Keep、ドキュメントならEvernoteとかDropbox Paperを使えばいいのですが、ソースファイルです。

ということで、Chromeブラウザ拡張機能で、ファイル編集アプリを探しました。

Caret

ですね。

作者はこの方=トーマス・ウィルバーんさん。

Thomas Wilburn dot Net

Caretの紹介メインはこちら、Caret - Professional Text Editing for Chrome and Chrome OS

彼のブログによれば、2013年にはじめてChromebookを買ったとき、Chromebookに良いオフラインエディタがない!と知って、自分でお作りになったそうです。Cloud9とMozillaを駆使して。

http://thomaswilburn.net/caret/

私も長らく、Chromebook使いたいなーと思いつつ、今に至ります。

Chromebookユーザでなくても、Chromeブラウザ利用者として、感謝。

 

・・あれ、んじゃMozilla Firefox版もあるのかしら・・・

 

はてなブログで特定の記事を先頭に固定する方法

自己紹介てきな記事はブログの先頭に固定しておきたいと思ったら、フツーに出来ました。

 

ブログのトップページの先頭に、記事を固定できるようにしました

 

上のリンクで完璧に解説されていますが、読むまでもなく簡単。

 

記事の管理ページを開いたら、

編集ボタンを、そのまま押さずに(実はドロップダウンになってる・・)

「トップページの先頭に表示する」

 

 

 

にすればいいようです。</p

自己紹介なのか自慢なのか・・・

ちょっと自慢ぽく読まれるとナンなんですが、 海外旅行には、相当な回数、行っております。

去年、5年ぶりに日本に住民票を戻したんですが、 去年の12月から3ヶ月ほど、東アフリカの「お客さん」のためにしばらくアフリカに滞在していました。 ことしの元日は機内泊でアフリカからトルコへ出張。 1月下旬と2月下旬は、ケニア。

3月は東南アジア経由で、タイ、マレーシア、香港と中国深センをウロウロしてから東京に落ち着いてます。

アフリカにはどうやって行くか聞かれることが多いですが、時間的に早くて快適なのは中東経由ですね。 行きのカタール航空は機材も新しく、たいへん快適でした。 帰りは南回りエチオピア航空経由でバンコク入り。

(つづきます・・・多分w)

カタール航空では、短時間ながら機内WiFiが使えます。 (ほんでイマココな写真をSNSに流す・・・)

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あぁ、カタール航空機内食3連発!どうぞ。

ディナー(エコノミーです) f:id:harapon2000:20180922200306j:plain

これは多分カタール到着前の朝食 f:id:harapon2000:20180922200758j:plain

カタールからエンテベに向かう機内の、朝食パート2 f:id:harapon2000:20180922200655j:plain

ちなみにカタールのドーハ国際空港は、こんな感じ。 空港内を連絡用のモノレール(だったけ)が走ってました。

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このブログ「旅人のうた(新館)」について

「旅人のうた(新館)」は、2017年はてなブログに登録したときにつけた名前です。 もう15年も前auのブログサービスに「本館」があり、ニフティのココログに「別館」があったのですが、どちらも解約し・・・

基本的に海外旅行大好き人間なんで、旅行と旅の友=本とか音楽とか旅行雑貨とか・・・=を主要テーマに綴ることになるんだろう、と思います。

「リンドバーグ 第二次大戦日記」(上・下)チャールズ・A・リンドバーグ 新庄哲夫訳

チャールズ・リンドバーグ(1902-1974)

初の大西洋横断飛行で、日本でもよく知られる彼が、第二次大戦中は太平洋戦線で日本軍と対峙していたことはあまり知られていない。日記は大戦終結後25年も経ってた1970年に公開された。この日本語の文庫本は、1000ページに及ぶ日記のほんの五分の二だそうである。 日記だから徒然に書かれている。それでも彼が何を考えながらこの時代を過ごしたのかがわかる。 欧州の大戦前夜は欧州、そして真珠湾攻撃にはじまる日本の参戦時、リンドバーグはアメリカ本国にいた。ドイツとの戦争に反対し、米国ではファシスト呼ばわりされる。

「自分はしばしば私的な会話や雑誌の寄稿文などで、西欧諸国がロシアや日本に背を向けて殺戮し合うのは悲劇的な誤りであると指摘してきた。ヨーロッパ戦争が長引けばそれだけロシアと日本は得るところがおおくなると、自分は発言してきたし、今もそう信じて疑わぬ。その論拠とするところは、西ヨーロッパでの戦争継続が日本の制覇を可能ならしめ、ソヴィエト存続を恒久的なものにならしめるという革新に基づく。我々にとっての最大の願望は、西欧の全諸国が東方諸国に対する抵抗力を失うに至るまで疲労困憊しないうちに戦争を終らせることである。 (中略) 現実が示しているように、日本は太平洋でわれわれを敗北させたのである。一方われわれがドイツを叩くのに成功しているのであれば、われわれは自動的にソヴィエトの勝利を作り出すことになる。ソヴィエト支配下のヨーロッパはドイツ支配下のヨーロッパより遥かに悪いことになるだろうと思う。イギリスもアメリカも、勝利を収めた場合には結局、敗北したことになる戦争にまんまと引き込まれたのだ。(後略)」

アメリカの参戦により、リンドバーグは航空隊への現役復帰を希望したが叶わず、しかしユナイテッド エアクラフト社のコンサルタントとなって、米軍戦闘機コルセア(F4U)の改良と新型戦闘機開発計画に携わることになる。 1944年、リンドバーグは実戦下の太平洋地域へ「出張」し、現地の航空隊でコルセア機の調査や研究を行う。(第7章 日本軍と対峙した日々) 民間人の調査研究といってもそこは前線である。
ラバウル爆撃に同行する。その帰りには機銃掃射にも加わっていることが書かれている。

1944年5月22日
まさか機銃を撃たなかったでしょうね?」と、カールソン中佐は訊く。機銃を撃ったと答える。「しかし、そんなことは絶対になさるべきじゃなかった。つかまったら最後、銃殺に処せられますよ」。将校食堂へ行く途中も議論が続く。「技術者として戦闘を観戦する権利はあります。しかし、発砲する権利はありませんよ」「もちろん、帰投の途中、射撃訓練に参加するのは差し支えないでしょう」。(後略)

5月24日
午後、ニューアイルランド北岸沿いの偵察、対地討撃飛行に参加する手筈をつける。 (中略)人間だ。
ニューアイルランド島のあらゆる日本人、敵性原住民、いっさいが目標えあるー制限なしー眼に入るものはすべて撃て、という命令だ。照準を定める。 男は海から上ってきた。が、走り出そうともせぬ。砂浜は幅広い。木立の仲間では逃げおおせまい。男は照準の中心に入る。指先が引金に掛かる。指を曲げれば、彼はサンゴ礁の上に崩折れるだろう。
にもかかわらず、彼は敢えて走り出そうともせぬ。ただ砂浜を大股で歩いて行く。一歩毎の歩調には威厳と勇気がある。普通の人間ではない。ーそこには絆としてわれわれを結び付ける何ものかがある。彼の一命は引金に掛ける圧力よりも千金の価値がある。この男が砂浜に崩折れるのを見たくない。私は引金から指を外した。

6月26日 月曜日
談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」
「あるは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる。
「たとえば***隊だが、かなり残酷なやり方で切り刻まれている隊員の遺体を発見した。それ以来、連中は日本兵をさほど多く捕虜にしなくなったと考えて間違いない」
話は次いで空中戦やパラシュート脱出に移る。一座の操縦士は一人残らず、パラシュートで降下中の敵のパイロットを撃ち殺して差し支えないと主張した。もっとも、自分ならそんな真似はしたくないと断る者が数名いた。「これも、最初はジャップの方からやり出した。やつらがその手を使いたければ、われわれにだって同じ手が使えるということだ」。パラシュートにぶらさがったまま、日本軍に撃ち殺されたアメリカ軍パイロットの話が幾つか披露された。
(後略)

6月28日 水曜日
第四百七十五飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過ごす。話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。日本兵の死体から略奪したり、略奪の最中に死者を「野郎」(サノヴァビッチ)呼ばわりしたりすることも意に介さぬ。ある議論の最中に私は意見を述べた、日本兵が何をしでかそうと、われわれがもし拷問をもって彼らを死に至らしめれば、われわれは得るところが何一つ無いし、また文明の代表者と主張することさえできないと。 (後略)

7月21日 金曜日  今朝、ビアク島の断崖にたてこもる日本軍の強力な拠点に再度の攻撃を加えることになった。(中略)もう何週間も、二百五十名から七百名の間と推定されるいわば一握りの日本軍は圧倒的な強敵に対して、また充分に補給された火器が撃てる限りの猛砲撃にも、その拠点を死守し続けてきたのだ。  仮に攻守ところを変えて、わが方の部隊がかくも勇敢に立派に拠点を死守したのであれば、この防衛戦はわが国の歴史上、不撓不屈と勇気と犠牲的精神との最も栄光ある実例の一つとして記録されたに相違ない。が、安全でかなり贅沢な将校クラブに坐しながら、これらの日本軍を「黄色いやつばら」と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けねばならないのである。彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、むごたらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、的に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えは全くない。  自分が最も気にしているのは、わが将兵の側にある殺戮の欲望ではない。それは戦争に固有なものである。問題は敵の尊敬に値する特質にさえ敬意を払う心を欠いていることだ。 勇気、艱難、死、信念に殉ずる覚悟、卓越した訓練と装備にもかかわらず次々と殲滅されて行く部隊等に対し敬意を払う心が全くない。われわれには勇敢な行為であっても、彼らがそれを示すと狂信的な行為ということになる。われわれは声を限りに彼らの残虐行為をいちいち数え立てるが、その一方では自らの残虐行為を包み隠し、ただ単なる報復措置として大目に見ようとする。 (中略)

7月28日、リンドバーグは日本軍の戦闘機を一機、撃墜する。
しかしその後、8月1日、P38でパラウ島方面への出撃に同行した帰途、リンドバーグの機は日本軍の零戦に頭上から襲われる。

8月1日 火曜日
反射鏡を一瞥する。頭上に敵の戦闘機が一機、垂直降下で襲いかかってきた。
(中略) 私は防弾板の前に身を屈め、敵弾に撃たれるのを待った。アンのことー子供たちのことを想う。体中が緊張に強ばる。時間が長く感ぜられ、この世がこれほどはっきり見えたことはない。ところが、発動機も吹っ飛ばず、翼がちぎれもせず、計器盤のガラスも四散しなかった。
 零戦は上昇し去っていった。マクドナルドが長い距離からの偏奇射を加え、追い払ったのである。」

リンドバーグが巻き込まれた戦闘は大問題となり、マクドナルド中佐は60日間の処分を受け、リンドバーグも本国帰還を命じられる。

8月13日 日曜日
スミス少佐がわれわれのテントにやって来て、ケニー将軍が昨日ビアク島に到着し、リンドバーグに二度と戦闘飛行をさせないようにという命令を残していったそうだ!

8月21日 月曜日
(中略) ケニー「君は撃墜されて捕虜になったら、公開処刑にされるぞ!」(民間人として戦闘飛行に参加する問題に関連して)
リンドバーグ「捕まったら最後、民間人であろうとなかろうと斬首されるそうじゃありませんか」
ケニー「本国でひと騒動を起す羽目になるからね」
リンドバーグ「観測員として飛行中、撃墜されたと発表すればよいではありませんか」
ケニー「そんな説明ぐらいではすまんよ」 (後略)

リンドバーグは日本軍との太平洋戦線から本国へ帰国した。
日記は、しばし中断ののち、1945年5月、こんどは海軍技術調査団のメンバーとして、ドイツの航空機、誘導兵器の開発状況を調査するヨーロッパ訪問から再開される。(第8章 廃墟の中に立つー1945年)

彼はドイツ空軍司令部や、各地の飛行場を視察し、メッサーシュミットらの航空関係者とも接する。それらの日記も興味深いが、何より印象に残るのは、日本語版のほぼ終わりに書かれたナチスの収容所訪問記である。

6月11日 月曜日
今朝は地下工場の反対側から探検をする計画だったが、まず最初にキャンプ・ドラを見て回ることにした。
(中略)
『一年半に二万五千人が焼き殺された』ーわれわれの質問に答えて彼は自分がポーランド人であり、17歳になったと言う。(中略)彼は地面を見下ろしていた。私はその視線を追った。(中略)穴は焼却炉から運んだ灰で溢れていたのであるー人骨の細いかけらの山ーそれ以外の何物でもなかった。 (中略)
かりそめにも人間がー文明人が、かかる次元まで堕落できるとは考えられないことのような気がする。にもかかわらず、彼らは現実にこうして堕落したのである。ここドイツのキャンプ・ドラにおいて、またかのビアク島のドイツにおいて。しかも、ビアク島ではわれわれアメリカ人がそれをやってのけたのである、それとは異なる価値のために立ち上がったと主張するわれわれが、だ。ドイツ人はユダヤ人のあ使い方で人間性を汚したと主張するわれわれアメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのである。 (中略)
私は人骨の灰に埋まる穴を見降ろした(「一年半に二万五千人だ」)。かかる行為はなにも特定の国家や民族に限って行われたのではないことに気が付く。
ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行ってきたのである。ドイツ人が人間の灰を穴に埋めることで自らを瀆したとおなじように、われわれもまた、ブルドーザーで遺体を浚い、墓標もない熱帯地の穴に放り込むことにより自らを瀆したのである。地球の片側で行われた蛮行はその反対側で行われても、蛮行であることには変りがない。「汝ら人を裁くな、裁かれざらん為なり」(新約聖書・マタイ伝第7章1節)。この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃とをもたらしたのだ。

atomからはてなブログに投稿する

atomエディタからはてなブログにMD(Markdown)で記事を投稿する

ブログをちゃんと更新するかどうかは、そのブログへの入力の使い勝手に依る所が大きいと思うが、 これという決定版サイトがなかなか無くてですな。

au oneな … むかし使いやすかったな。


うん、マァ、長らくかまけていたのは確かだ。

Markdownという便利な書法もあって、是非というか、絶対的にソレでやりたかった、かつ、 エディタでソースを書いて管理したかったわけ。 ということでまず、 atomエディタにパッケージ hatena-blog-and-fotofile を導入。

hatena-blog-and-fotofile の設定

API keyに、はてなブログの「詳細設定」→AtomPubにあるAPIキーを設定し、 あとはHatena ID(当方の場合はharapon2000)、 ブログURL(当方のこのサイトならharapon2000.hatenablog.com) これらを入力したら、 試しにALT+Ctrl+Pを押してアップロード。

見出しとか、ちょっと変な感じですが・・・まいっか。